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1871 (明治4)年春、前年まで定住者わずか 13 人だった札幌は、開拓府の建設作業に携わる労務者約1万人が集まり、にわかに活気を見せていた。ところが、彼らのほとんどは、一稼ぎし終えたならば、サッサと本州に帰ろうという元祖「札チョン族」だけに、腰掛意識も強く、作業の能率は一向に上がらなかったという。『札幌中央署沿革史』は、当時の様子を「…人情薄く風俗また乱れ、賭博公行し飲酒に耽り、殴打その他の犯罪多く、金銭を賭すること土塊のごとく醜業婦出没して淫猥の風盛んなり…」と記している。
時の開拓使判官・岩村通俊も「これではいかん」と悩んだ挙句、「労務者対策には、まず女だ」とばかり、お上の主導で遊郭設置に動き始める。散在していた女郎屋 7 軒を、現在の南4条〜5条、西3丁目〜4丁目の2町四方4ブロックに集め、周囲には高さ 4 尺の壁を巡らせ、出入りの大門も設置した大規模な「薄野遊郭」を、夏には完成させてしまう。
ところで、ここで初めて登場する薄野という地名の由来については、「辺り一面が茅(芦や薄の類)におおわれていたため」という説が一般的だが、「遊郭完成に奔走した薄井竜之の功を称えるため、岩村判官がその姓から一文字をとってつけた」という説もある。いずれにせよ、この遊郭設置が、歓楽街「すすきの」の出発点であることは確かなようだ。
この成功に気をよくした岩村判官、今度は官営の巨大妓楼(女郎屋)開業へと動き出す。最終的には民間に払い下げる形となるが、建坪 193 坪の堂々たる「東京楼」(南 6 西3 現第 2 桂和ビル)は、 1872 (明治 5 )年に営業を開始、街中の男を魅了するとともに、榎本武揚ら多くの高官接待にも使われることとなった。
なお、現在、夏のすすきの祭りのメイン行事として催される花魁道中は、東京楼開業の日、東京からやって来た遊女 20 数名が、宿舎から遊郭まで優雅な花魁道中を繰り広げたことが起源となっている。
遊郭華やかなりし頃を偲ばせるものとしては、豊川稲荷(南7条西4丁目)も挙げられる。 1898 (明治 31 )年に落成した本堂は、今やビル街と化したすすきのにあって、明治の香りを残す数少ない建物の一つであり、境内には、芸妓の名が刻まれた門柱などが今も残されている。消えかかった文字の陰からは、彼女たちの哀しい半生も見え隠れしてくる。
遊郭設置から半世紀、札幌の人口は 10 万人に迫り、街並みも大きく様変わりしていった。かつて一面が茅だらけだった遊郭の周囲にも人家が迫り、風紀上の問題が取りざたされ始める。加えて、 1918( 大正 7) 年、開道 50 年の大博覧会が中島公園で催されることもきっかけとなり、移転問題がいよいよ本格化する。その 2 年後、遊郭はすすきのから豊平川を挟んだ対岸の白石(現在の菊水地区)に移され、薄野遊郭は 50 年の歴史に幕を下ろすことになる。
(すすきの新聞 石川 洋)
*参考文献
『物語・薄野百年史』(脇哲)『さっぽろ文庫
87 すすきの』( 札幌市 教育委員会編)
『札幌市
史』『札幌中央署沿革史』
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