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「活動写真、カフェー時代」

遊郭移転後のすすきのには、料亭、カフェー、喫茶店、活動写真館などが続々と生まれ、新しい歓楽街として生まれ変わっていく。
 
 特に多くの客を集めたのが、当時大衆の最高の娯楽であった活動写真。すでに明治初頭、芝居小屋として秋山座(南5条西5丁目)が建てられていたものの、ブーム到来は1896(明治29)年に大黒座(南4西3 現第3グリーンビル)が歌舞伎のできる本格的劇場としてオープンしてからになる。翌年の盆興行では活動写真を上映し、大人気を博したというが、活動写真の日本上陸からわずか5カ月後であることを考えると、札幌っ子の新し物好きは、今に始まったことではなさそうだ。
 
 さらに、1921(大正10)年には美満寿館(南5西4 現東宝公楽ビル)、西田座(南5西4 現丸富ビル・ライラックビル)が相次いで開業し、狸小路とともに大正、昭和を代表する庶民のアミューズメントスポットとして人気を集めていく。
 
 同じ頃、全盛を迎えたものにカフェー文化がある。1930(昭和5)年、札幌の飲食店数が約200だったのに対し、カフェーは約450軒を超えていたというから、その人気の程がうかがえる。中でも、最初の本格カフェーとして南4条西3丁目(現北星ビル)に開業した「エルム」(料亭「エルム山荘」の前身)、その東隣の女給50人以上をかかえた大衆向けの「太陽」、小説のヒロインにまでなった女給小夜子が勤めた「錦糸」が、戦前の三大カフェーとして君臨していた。

 かつての芸妓にかわり、客をもてなす女給たち。その収入は客からのチップだけだが、月平均で70〜80円は稼いだという。
東京とは比べるまでもなく低かったが、女教師で50円、デパートガール24円という時代だったことを考えると、かなりの高給である。
当然その裏には、体を張ったサービスもあったようで、やがて警察、道議会からの締め付けが強まっていくことになる。

 日中戦争が始まり、国中が軍事一色に染まり始めた1937(昭和12)年以降、それまで社会情勢の変化を巧みにかいくぐってきた
すすきのでも、転廃業する店が多くなっていく。やがて太平洋戦争に突入し、女給たちは挺身隊員へ、料亭は幹部将校の宿舎へと
様変わりし、すすきのにも暗黒時代が訪れる。



                                      (すすきの新聞 石川 洋)

                               *参考文献

                               『物語・薄野百年史』(脇哲)『さっぽろ文庫 87  すすきの』( 札幌市 教育委員会編)

                                        『札幌市 史』『札幌中央署沿革史』




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