敗戦後、進駐軍相手の商売は繁盛したものの、「…(昭和21年6月)配給食料の遅配、欠配が50日余も続き、 一般市民はついに餓鬼道そのままの光景を現し、栄養失調者はちまたに満ち、市民の死亡率は急増した…」 (『札幌市史』より)日本一の遅配都市札幌では、すすきのといえども、南4条西3丁目(現すすきのビル) 周辺で外食券食堂が数軒営業する程度で、閑散としていた。 ようやく光を取り戻すのは、1950(昭和25)年以降のこと。それまで屋台を中心にたくましく商売を続けて きたすすきのは、キャバレー、ダンスホール、バーを中心に再び活気を取り戻す。 特に「モロッコ」(南4西3 現ススキノビル)、「白鳥クラブ」(南4西2 現Biプラザ)、「マイプロミス」 (南5西4 現観光会館)、「アカネ」(南4西4 現ロビンソン裏)というフロア面積100坪以上の名店が四 大キャバレー時代を築き、キャバレー全盛時代に突入していく。 同時に、男女が出会いを求める場、キャバレーの客がホステスを連れて立ち寄る先としてナイトクラブも隆盛 を迎える。 1960(昭和35)年には人口50万人を超えた札幌。この頃、本州資本の支店が続々と札幌に進出し、社用族や公 用族がすすきのを闊歩し始める。1958(昭和33)年の売春防止法施行による赤線廃止が大きな打撃になると予 想されたものだが、高度成長に支えられ、すすきのも大いに潤った時期である。「札チョン」という言葉も、 1962(昭和37)年に吉行淳之介が発表した短編『札幌夫人』の中から生まれたものだ。